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カップルでいきたいイタリア「サン・ピエトロ広場」の魅力

バチカン市国にある建造物の歴史をご存知ですか?イタリアの首都ローマの市街北西部に位置する、キリスト教徒の総本部のあるバチカン市国には歴史ある建物が今なお、昔の物語を残していくつもの場所が観光地となっています。昔から救いの場所の一つとなっている「サンピエトロ広場」に足を運んでみてはいかがですか?

初めて行かれる方も、今までに行かれた事のある方も、何度でも行ってみたいと思わせるそんな空間が待っていますよ。

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サンピエトロ広場の魅力に感動できます

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広大なこの、広場には色々な思いが込められています。どのような事が、あったのでしょうか?サンピエトロ広場の魅力をお伝えしていきます。

1.バチカン市国南東端にある楕円形の広場

バチカン市国南東端のバチカンの丘の上には、カトリック総本山であるサンピエトロ大聖堂の前に楕円形広場があります。

この楕円形広場は「サンピエトロ広場」といわれ、17世紀ベルニーニという偉大な人物が建設した、長径240mある広場の左右に4列のドーリア式円柱284本あり、柱の上には140体の彫刻で作られた聖人像があり、聖人像たちは広場に集まった人々を見守るように立ち並んでいるんです。そして広場中央に、オベリスクが建っています。

この場所にはある一人の、人物の思いがあったのです。それは、≪世界中から救いを求めてサン・ピエトロ広場に集まる信者たちの心情を思い、設計をしたベルニーニは広場を訪れる人々に、より大きな感動を与えようとローマの町に仕掛けを施しました。

仕掛けとは、広場に向かう信者たちが渡るサンタンジェロ橋に足を踏み入れると、10体の天使が彼らを迎える形に配置しました。信者たちはこの橋を渡りながら、キリストの受難と自らの苦しみそして、聖地へと向かう重苦しい受難の道を越えて真っ直ぐ進んでいくと、そこには巨大な空間である楕円形の広場「サンピエトロ広場」が長い旅路の果てに辿りついた信者たちを出迎えているというからくりである。≫

2.バロックの巨匠ベルーニの設計

~バロックとは?~
1950年ごろから盛んになった「バロック」という名の建築様式で、豪華でありながら古典的な様式で他の建築様式とは際だったもので、内部の空間の複雑な構成が特色と言われ、比較的に自由な建築様式だったそうです。

~ベルニーニとは、どんな人だったのか?~
サンピエトロ広場を、設計したベルニーニ(ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ)はバロック芸術を代表する芸術の巨匠です。

このベルニーニはイタリア・ナポリに生まれ、ベルニーニの父がローマ教皇パウルス5世のために「サンタ・マリア・マッジョーレ教会」で働いていた時、一緒に父のもとで学びパウルス5世とその甥に早熟の才能を認められ、建築家・彫刻家・画家・演劇装置家と才能を開花されていったそうです。

その後、ローマでサンピエトロ大聖堂などの重要な設計を注文されるようになり、ローマ教皇アレクサンデル7世がサンピエトロ大聖堂前の広場の、拡張と整備の為のプランを命じられたのがこのベルニーニだったのです。

「ベルニーニはローマのために生まれ、ローマはベルニーニのためにつくられた」と賞賛されたほど、ローマには欠かせない人物になっていった偉大な人なんです。

~ベルニーニの設計~
このサンピエトロ広場は1656年~1667年の約11年の月日をかけて作られました。

サンピエトロ広場の建設に11年もかかってしまったのは、一番には広場が広大だったからと、広場に高さ13mのドーリア式円柱が左右に4列で計284本と、ベルニーニの弟子たちが彫刻でつくった聖人像140体を置くことで長くかかってしまったと言われています。

サンピエトロ広場を建設するにあたって、課題もありました。それはバチカンでスピーチをする教皇の姿が見れるよう、この広場になるべく多くの人々が集まる広さにする事でした。ベルニーニは広場を、幅240メートルもある巨大な楕円形として完成させその、課題に応えて30~40万人を収容できるように建設させたそうです。

ベルニーニは古代ローマの闘技場コロッセオからインスピレーションを受けて、コロッセオが生み出した熱狂と興奮をもとに、サン・ピエトロ広場を巨大な劇場空間へと変貌させようとした。

3.ドーリア式円柱による4列の柱廊

~ドーリア式とは?~
広場の左右にある284本の「ドーリア式円柱」は、ギリシャのメインランド半島部で流行しパルテノン神殿でも用いられ、ギリシャ建築ではもっとも古い基本的な配列形式で、古代ギリシャの建築様式を使ったとされ、ここにも歴史を感じますよね。

~4列の柱廊の存在~
なぜ 、このよな建築になったのかといいますと元々、鐘塔の建設計画があったそうなんですが、その計画が放棄されてしまいサンピエトロ大聖堂には鐘塔がありません。

そのためローマのカトリック総本山でありながら、サンピエトロ大聖堂の正面部分が貧弱に見えてしまっていて、そこを改善する為に大聖堂の左右に、広場を取り囲んで4列に並べた高さの低いドーリア式円柱を計284本で列柱廊を建設することによって、サンピエトロ大聖堂を大きく見せる事ができたそうです。

この柱の1本1本を見てみると、真っ白な色でとても大きく輝いて見え、上から柱廊を眺めると両側から包み込むような感覚になるデザインです。このサンピエトロ広場と列柱廊に関した、ベルニーニの個人的な思いが隠されている言葉があります

≪サンピエトロ大聖堂は、全ての教会の母である。教徒の信仰を固める為に、異端の人々を教会に復帰させる為に、異教の人々を真の信仰に目覚めさせるために、母のように両手を広げて受け入れることを表現した柱廊が適している。≫

全てに対しての思いが、込められているんですね・・・

サンピエトロ広場の観光の見どころ満載です

ベルニーニの思いが込められた最後の仕掛けがサン・ピエトロ広場内にありました。そしてサンピエトロ広場には他にも、歴史ある建物や人々が存在しています。この場所を訪れたのなら、欠かすことが出来ない物語を楽しむために、いくつかご紹介します。

1.オベリスク

~オベリクスというのは?~
花崗岩(カコウガン)と呼ばれる岩から作られたもので、色は白っぽく磨くと光沢が出る性質があり現在では、土木・建築用石材として使われ日本では神戸市の御影(ミカゲ)で取れるのが有名で御影石(ミカゲイシ)とも呼ばれています。

古代エジプトでは神殿の入り口の両脇に建てられ、ピラミットの代わりにエジプトの太陽神に捧げた石柱のような記念碑の一種です。

オベリスクという言い方は、ギリシャ人が「串」という意味で言われていたのが、今現在も言われています。元々当時のエジプトでは、オベリスクとは呼ばれず「テケン(保護・防御)」と呼ばれていたそうです。

~オベリスクとはどの様な、ものでしょうか?~
当時エジプトで作られてきたオベリスクは、高さは約25nで細長く四角柱になっており、上に向かうにつれ細くなり先端はピラミッド型でとがっていて、側面には象形文字で碑文や図像が刻まれていました。太陽神の象徴の一つであったことで、オスベリクスの先端部分には毎朝最初の光が宿るとされ琥珀金(コハクキン)や銅版が張られていたそうです。

~現在は世界中でオベリスクが見れます~
当時エジプトでは戦利品・贈答品として使われていたため数多くがエジプトからヨーロッパ、そして世界各国に持ち出され現在ではエジプトに7本、ローマに13本そしてフランス・イギリス・アメリカ・トルコ・イスラエルの全部で30本のオベリクスが現存しています。

~サンピエトロ広場とオベリスク~
西暦37年にローマ帝王であるカリグラ帝がエジプトから、ネロ広場(円形の大競技場)の目玉として運んできたもので、16世紀末にサンピエトロ広場に移設されたそうです。ローマにある13本のオベリスクの中で唯一、一度も倒れる事がなかった丈夫なオベリスクなんです。

そして、このオベリスクの移動にはなんと900人の労働者と、馬140頭が使われたと言うから驚きますよね!!

2.双子の噴水

1675年にベルニーニによって作られました。もともとは、噴水は1つであったが真ん中にオベリスクが置かれた為、模倣してもう一つの噴水を作り双子の噴水になったそうです。

3.柱廊の中心ベルニーニポイント

~目の錯覚??~
オベリスクと噴水の間の石畳に、埋め込まれている「ベルニーニポイント」!!このポイントの上に立って柱廊を眺めると4列の柱が1列に見えてしまうという、なんとも不思議な場所で「ベルニーニミステリー」とも呼ばれているんです。

~なんでこの現象が起きるのでしょうか?~
実は、この4列の柱はこの「ベルニーニポイント」を中心として放射線に建設されているので、この様な現象が起きてしまうんだそうです。

~ここにもベルニーニの思いが込められていました・・・~
ベルニーニの最後の仕掛けは「ベルニーニポイント」で見る事の出来る4列の柱がぴったりと重なりあう所から、広場の外がきれいに見えることによって「閉じながらも、同時に世界が開けて見える、その両方を満たす空間」でベルニーニは、信者にとって閉じられら空間ではあるが、同時に世界中にいる信者達も救いをもたらすべき場であると考えたそうです。

4.スイス人衛兵

~スイス衛兵とは?~
1505年から500年以上も、ローマ教皇に仕える忠誠心ある方達がいました。彼らは「スイス衛兵」です。任務としては、「身辺警護」ですが、1982年ヨハネ・パウロ2世が襲撃されてからは睡眠スプレーと小型拳銃の携行が導入されました。

バチカンでは、一切意の軍事力は保持していないので「市民警備員」としてスイス衛兵がいるのです。「平和」のイメージがある永世中立国スイスは、各国に衛兵を送り出しているんです。

フランス革命の時には、マリ・アントワネットが処刑された後のフランス王国を守っていたのは、スイス衛兵だったそうなんです!!

~スイス衛兵の素敵な制服~
基礎となったのは、16世紀ルネサンス時代に当時の隊長ジュール・ルポンが着ていた青・赤・オレンジ・黄色が制服になったそうです。

~スイス衛兵の募集が人気なんです~
毎年、スイスでは「スイス衛兵の募集」に約300人程の人達が応募して、その中から110人が選ばれるそうです。スイス衛兵になると、他国の語学が学べるのと、その他の専門的な教育も受けられるという魅力と外国生活もできるので非常に人気が高いらしいんです。

<ちなみに、採用基準はといいますと>
・カトリックのスイス人
・19歳~30歳
・身長1.74m以上
・中学校または相当する職業訓練校と、スイス軍の基礎訓練課程を修了していること
・スポーツ能力と人品が良好であること
・独身であること

~5月6日の式典~
1527年5月6日、ローマの略奪の時に当時のローマ教皇を守る為に犠牲になったのは、189人いたスイス衛兵のうち残ったのは、たった42人だったと言われています。いまでは、5月6日を記念日として式典を行っています。

5.天使の門

天使の門とは、イタリアとバチカン市国の国境です。イタリア国とバチカン国の国境の場所に位置している所ですが、入国手続きも無くパスポートの提示が必要のない場所なんです。

6.ネロの円形競技場

~ネロの円形競技場の歴史~
西暦70年代に民衆への贈り物として娯楽施設を建設したのが、のちの「ネオの円形競技場(コロッセオ)」です。西暦80年に完成したといわれ、その頃の競技場の名前は「フラヴィウスの円形競技場」でした。これは、この競技場を作った皇帝親子の名前でした。

「ネオの円形競技場」と名前をかえたのは、ネロ帝の巨大な像(ラテン語で巨人をコロッススといったそうです)があったからとか?色々、言い伝えはあるそうです。

~何が、おこなわれていたのか?~
剣闘士や猛獣による死を掛けた闘いや、猛獣たちによっての公開処刑など残酷なショーを開催していたそうです。このショーは100日以上も続いたこともあり、この時ショーで使われた猛獣は約1万頭殺され剣闘士も1万1千人もの人達が死んでいったそうです。

~どの様に作られたか?~
ネロ帝の黄金宮殿(ドレス・アウレア)の中庭の人工池跡地に作られました。構造は、ロマーンコンクリート(火山灰を利用したコンクリート)であったが、幾多の地震でも崩壊しなかったそうで、それは全体が円筒形の力学的に安定していたからだったと言われています。

周囲は524mの四層の観覧席になっていて、長径188m・短径156mの楕円形で高さが48mありこの球技場に、約5万人が収容出来たそうで。

観覧席はというと、席は1番下は大理石で貴族階級・2階席は木の席で庶民・3階席は立ち見席の階級ごとになっていました。そして皇帝の席には一日中、直射日光が当たらない設計になっており観客席にも一日20分以上、日光が当たらない工夫がたくさんあった競技場なんですね。

この円形競技場は、80か所にアーチ(出入り口のことです)があり、皇帝専用と剣闘士専用を除く76のアーチには番号があり、観覧客の入場券のアーチ番号で入場させて、混乱を防ぐ工夫もあったそうです。

今でも残されている競技場の一部にある柱の跡ですが、昔の円形競技場で存在した人力エレベーターで、選手の入場で使われていたのもあるんすでから、長い歴史のなか大事にされていたのが分かります。

~その後の「ネオの円形競技場」~
修復記録から言うと、古代末期まで使われていたと考えられています。このネロの円形競技場の建材は、中世を通じて他に流用され採石場となったが、まだ姿を残しているのはかつて迫害されたキリスト教徒がこの場所で殉職して、聖地となったからとの言われがあります。

皆さんの目で見たら、もっと感動できますよ

時代の背景には「サンピエトロ広場」に思いを込めたベルニーニとそして、その場所に救いを求める人達や、教皇に命を掛けてきたスイス衛兵たち、ネオの円形球技場で犠牲になった人々とそれを観覧して楽しんだ人々と、皆いろんな思いがこの場所にはあったのですね。

この場所に訪れて、どの様な経緯でどの様な背景で作られたのか、歴史をたどる旅に出かけてみてはいかがですか?

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